みっちゃんの動画や写真データを整理していたら
「ハッ!」とした。
昔は写真がない時代があって、
今は動画まで出てるけど、
いつかの遠い未来では
そのうち記録再生媒体はホログラムになって、
手触りや匂いや味までするようになって、
そのうち
「思い出なのか『今ここ』なのか」区別がつかないほどリアルに感じられるようになるだろう。
ということは
「今ここ」で私が体験しているように感じることはすべて、
「かつてすでに起きたこと」
を
何らかの方法で魂が再生して、
「体験している風」の再現フィルムに過ぎないのでは。
それが、あまりにリアルすぎるから、「記録媒体の中の出来事」に臨場感を持ち過ぎているだけなのでは?
のでは?
というか、奇跡講座をやってるグループではこれは既に自明のこととして「すべてのことは既に台本に書かれていて、箸の上げ下ろしまで台本通りに追体験してるだけ」ってことを何度となく聞かされているんですけれども。
でも、「私の人生」にリアリティを持ってる身としては、それは割と眉唾ものというか、SFかよ!
みたいな気もしていてね。
「へ〜」
くらいに思っていました。
そんなの、
体感しないとわからんやん。と…
じゃあ、努力とか決意とかそういうの全部意味なくなるんじゃ? だって、ここ、リアルじゃないんやろ? 何やっても変えようがないなら、「がんばること」や「成果」に一体何の意味があるの?
「私の人生」に、なんの意味があるの?
って。
人生に、白けてしまいそうで。
「私の人生」だと思っていたことが、遠い昔に既に記録されていた物語に過ぎない、なんて
「私」であることに固執していたら受け入れようがない。
「私の人生」という感覚の「私」という主体が、そもそも「本当の私」ではないとしたら、「私の人生」に、マジで意味はない。
「『私の』人生」に、マジで意味はなかった。
ごーーん。
だって「私」だと思っていたのは、本物の私ではないから。
人生に白ける、とかじゃなくて
臨場感を持っていた私の人生はそもそも本物ではなかった。
え、これ誰?
ってなったとき便利な言葉が、「神の子」なのかもしれない。
確かに、「私」という理解の範疇からこぼれてしまうわたしは、わたしではない。
本物のわたしは「私」の世界の中にいない!
観てるだけだ!
「完璧な愛はつまらないから二元性の枠に遊びに来た」とかでもない!
「悪夢と同一化した自分」「自分という夢」を見てるだけだ。
○
◆再生される記録に同一化したのが「私」(自我)
◆それは単なる記録されたアレコレですよふっふっふーと笑ってしまうのが「聖なるわたし」(真我)
なのでしょう。
聖霊は、自我の体験(録画データ)が本物ではないと教えてくれる存在。
つまり自我プロジェクターのスクリーンに含まれない、自我フィルターがかかっていない完全な叡智を保った存在。
「苦しいよー助けてくれ」と言ってるときは、「私はこの記録媒体の中に臨場感を持ってる!このデータから救い出して!」という状態なんやね。
でもそもそも「これ」はいつかの昔に書かれた単なるデータに過ぎないから、苦しむ必要はない。
だって本物のわたしはスクリーンの中には存在してないから。
別のとこで、人生という夢を観てるだけだから。
しかし、この結論に辿り着く人って、周りから見たら確実に頭がおかしい人だと思われそう。
映画の中の人が、「私って、実はこの映画のキャラクターじゃなかったんだ!」って言い出したら、その映画(世界)は終了してしまう。
ほかの登場人物たちから「アイツやべえな」と思われるだろう。
まあ、そんなこと気にならなくなるのだろうけど。
どちらがリアルなのか、という比重が、徐々に「こちら側」になっていくのでしょう。
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