わけがわからない数ヶ月(神を選ぶのか、自我を選ぶのかで悶絶)を過ごしたので、わけがわからない状態でも祈れるシリーズを書いたよ。
「どうしたらいいのかわからん」というとき用のお祈りとしてご活用ください。
ホーリースピリット=あなたのしっくり来る「真理である」と感じられる祈り先ならなんでもオッケーよ。
*もうわけわからんとき
◇ホーリースピリットよ、私には何もわかりません。ただ、あなたと共にいたいです。
*元気になってきたら
◇ホーリースピリットよ、あなたが共にいてくれてしあわせです。ありがとうございます。
*元気が継続するようなら
◇ホーリースピリットよ、私に何か具体的にすることがあれば、私にわかるように教えてください。そして、私が素直にあなたに対して心を開いていられるようにしてください。
*何か出来そうな気持ちになってきたら
◇ホーリースピリットよ、私には何もわかりません。私を燃やし尽くし、あなたの叡智の海に浸してください。
*しあわせなとき
◇ありがとう、ありがとう、ありがとう
*さらにしあわせなとき
◇(無言でホーリースピリットからの感謝を受け取り、感謝を返し、ホーリースピリットと一体になる感覚を味わう)
写真は蘇我梅林にいるももこ
げんき?げんき?とあちこちから愛のメッセージをいただくので、元気になってきたヨ!の投稿でした。
薬指だけひどい湿疹で結婚指輪がはめられなくなって、執着を断つために旦那さんと離婚した方がいいのかも、と本気で悩むとこまでいったのですが、
「兄弟との関係は、私(キリスト)との関係と同じである」というメッセージが来たので、修道院に入ったりヒマラヤに行ったりしなくてよさそう。引き続き、在家で里の行です。笑
ぶっちゃけると、私は「自分のために家族を犠牲にする」のは比較的簡単に出来る超自分勝手なタイプなので、それは私の神へのサレンダーの最終形態ではないのだろうと思います。
お釈迦さまは家族捨てちゃったけど、あれはゴータマ・シッダールタにとって家族が神の愛への妨げになるほどの執着対象だったからなのではないかと感じる。情に厚い方だったんだろうな…と。
神への道のりというカリキュラムは、一人ひとりぜんぶ違うので、あの人がこうだったから私もこうなる、ということはわからない。
「兄弟(家族)を日常生活の中でどれだけキリストとして信頼し、心を開くことが出来るか」というのは、今の私にとっては家族を捨てて出奔するより難しいことです。
なぜかというと、旦那さんや子供は、現時点で私自身の「隠された自己」を見せてくれる鏡だからです。
後日追記:「神の子として相手を見る」を徹底すると、肉体的なレベルでの「特別な愛情関係(親子・夫婦など)」には意味がなくなります。
が、それは決して相手を「見捨てる」ことは意味していません。むしろ「本当の意味で愛する」ことになります。
(でも現時点でそこまで私はまだ意識が達していないので、この状態の私が縁を切ると単なる逃避で「家族を犠牲にする」ことになると思われる。)
私は、他人を赦そうと祈ることは比較的容易です。
たぶん、善人ぶれるからだと思います。
一方で、自分自身を神の子であると本気で認めることに、ずっと抵抗しています。
私は私自身を赦さないことで、心の底では誰ひとり赦さないようにしています。
でも、それを手放す時が来たのだろうと思います。
旦那さんに「私はもっと自由になりたい」と言ったら、「それ以上自由って、きみは一体どうなるつもりなの!?」とびっくりされたのよ。
目に見える生き方はなんでもいいんだけど、
心の底から丸ごと「神の子であるとわかりたい」というのが、私のもっとも深いところにある、自由への欲望です。
自分が神の子であると完全にわからなければ、私はあらゆる人たちを罪ある囚人として、心の底に繋いだままになります。
私はまだ、自分が神の子であると本気で100%24時間は宣言できていない。
でも、私の中のホーリースピリットは、それを早く受け入れるようにと何度も言うし、受け入れられるときはほんとうに笑っていられるの。
ああ、世界はないのか。
私には何の罪もないのか。
あれもこれもなくなって、
理由もなく私はただ笑っている。
神さまと結婚した気持ちで、改めて祈りまする。
はる、るるる。
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