わたしは、ここに、います!!

日常

今朝は、カードを引いてみたよ。
親友にもらった天使オラクル。
かなりの確率で「Akasha」のカードを引きます。
アカシャ=アカシックレコードのアカシャです。
虚空蔵菩薩の真言「Namo Ākāśagarbhāya, Oṃ ali kalmali mauli svāhā」
のアキャシャと同じです。

そんな連想から、ベルクソン時間と虚空蔵菩薩ついて思いを馳せていました。


あいしてる
ありがとう
ここにいるよ

ーーー

哲学も形而上学も読むのだけれど、私の語ることは基本的に「結論ありき」です。
これは私の知覚が霊的知覚に追い付いてないせいです。
答えのバイブレーションが初めに降ってきます。
そして、そのままだと意味不明すぎてわからないので、知覚でそれが理解出来るようにえっちらおっちら紐解く感じです。

ただし、私の知覚は人間という形態である限りは「私という思考体系」の概念に引っ張られます。

知覚が浄化されていないと、受け取るバイブレーションを歪曲した状態でキャッチすることになります。

「現象Aに対してどんな印象を持つか、Aにどんな意味を与えるか」
というのは
「現象そのもの」ではなく「知覚する側」によって決まります。

「知覚する側」である私のメガネが色付きだったり歪んでいたりすると、知覚されるものはことごとく歪みます。

そして、この知覚を浄化する方法が
「【私及び私の知覚する世界の全ては聖なるものである】という霊的な思考体系を採用する」ということです。

つまり、この世界に「特別に聖なるもの」は存在しない、ということです。
なぜなら霊において個体の区別はないからです。

さらに、この世界に「特別に悪しきもの」は存在しない、ということです。
なぜなら霊において個体の区別はないからです。

個別の個体差ある肉体が「私」である、
あるいは個別の意識体が「私」である、
という前提で受け取ると、情報が歪んでしまいます。

この一歩手前のいわゆる「霊界」においては、肉体のない意識体(Spirit)も個体として認識する段階がありますが、実はそれらは全て「私」に含まれます。
なぜなら認識されるものは認識するものだからです。

「私という思考体系」とはつまり「世界」の全てをさします。
世界とは、知覚により存在しているバーチャルなものだからです。

そして、ここでいう「私」は「さとももこ・34歳・身長147センチ・女性」という個体をさすものではなく、「この世界を知覚し知覚されるすべてのもの」を意味します。

受け取る・与えるは同時に起こるからです。

机も椅子もカラスも犬も蟻もゴキブリも星々も宇宙人もミトコンドリアもコロナウイルスも祝福された神の子である私の断片の投影されたものです。そうは見えんのやけど。笑

(↑そうは見えん、というのが知覚の歪みです。)

同時多発的に同一時間軸に存在するようにみえるすべての人々は「いつかの私」の過去生・未来生であり、「他人」は存在しない。
慈悲とは、肉眼で見えるその人ではなく、時空を超えて悟ったキリストであるその人を知覚することです。
そしてその人は私自身です。

結論のバイブレーションだけスポーン!と降ってくるときは、とてもしあわせで笑い出したくなる気持ちになります。

しかし、この概念を素直に表現すると

「わたしは今、このお味噌汁です!!」
とか
「この砂粒のひとつひとつに私がいます!!」
とか
「あちらに吐かれたゲロは、私です!!」
とかになるので、よく旦那さんから「お前は何を言っているんだ」という目で見られます。

つまり、

「わたしは、ここに、います!!」

という言葉は、私にとっては
セカイを全的に祝福する意味合いになります。

私=世界全部

ここ=過去未来というリニアな時間軸を廃した「いまこの瞬間」という永遠、つまり空間は存在しない

います=being : 実在(神・愛)への呼びかけ

あえて説明するならば、

時間と空間という幻想を脱ぎ捨てた「私(世界)」が、神の子としての自覚を持って存在しています、という歓び宣言です。

ハレルヤー!