リンク先は義足アーティスト、Victoria Modestaの超かっちょいいPV。これは、生身のあんよではむりよ。すごいねえ。攻殻機動隊っぽさもあり、スタイリッシュです!
我が家は母が手帳持ちの身体&精神障害者で、姉も脚の病気で幼少期入院&松葉杖生活をしていたので、いわゆる「障害者」と呼ばれる人が身近にいるのが普通でした。
私自身もエンパス(共感覚体質)のコントロールが出来ない間は、ほとんど精神疾患と似たような症状に苦しんでいたので、気持ち的には当事者のようなものです。長いことPMDD(月経前症候群の酷いバージョン)で毎月ヤバい感じだったし、限りなく発達グレーゾーンに近いところにいる自覚があります。
便宜的に「障害者」という言葉を使いますが、challenged(チャレンジド)とかdifferently abled(ディファレントリー・エイブルド、異なった能力を持つ)といった言葉のほうが、自分としてはしっくりくるかも?
「障害者」という概念をどのように捉えるかは人それぞれですが、「障害」を個人の側の問題として見るのではなく、社会の側に属する問題であるとする考え方を、私は推したいと思っています。
例えば、昨今ではみんなメガネやコンタクトレンズを使うのが普通になっています。メガネをかけている人を、「障害者」とは呼びません。それは、メガネやコンタクトレンズが社会に普及したからです。
手軽に補正できる程度の問題は「障害」として認識されません。
また、ディスレクシアなどの学習障害も、識字率が低かった時代には問題になりませんでした。みんな字が読めない時代は、読めないのが普通だったからです。
人の概念というのは、絶対普遍のものではありません。「ある概念をどのように認識するか」は、状況によって変わります。
縄文時代の絶世の美女は、アトランティスの絶世の美女とはタイプが違うはず。
「障害」の定義も、時代によって流動的なものである、と言えます。社会の構造が変わることで、「特定の概念」についての定義やニュアンスも変わります。そして、その社会を作り出しているのは、今を生きる一人ひとりなんだよね。
集団の意識を画素のように捉えると、個人がどんな色を発しているかによって、画面全体に映し出される像が変わります。ひと粒づつのドットはとても小さいけれど、その点なくしては像は作られません。
「私は状況の【みじめさ】を見るのではなく、のびやかに生きることを選択する」と決める人が増えるほど、社会の解放性も増していきます。
義足も、ここまでかっこよくなっちゃうと、もはやアートです。
こうして、既成概念の定義を打ち破る人が、新しい価値観を作っていく。
今の「普通」は、数百年後の「普通」とは全然違うはず。そして、全員が自分の人生において、みじめさではなく愛を選択する力を持っています。
願わくば、私がいつも愛を選ぶ点であれますように。
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