慈愛ってなんぞ

ACIM

慈愛とは他者を見るときの一つの見方であり、その人が時間の中で実際に達成しているレベルよりもはるかに進んだところに居るかのように、その人を見る。

彼自身の思考は間違っているので、彼には自分で贖罪を見ることができない。それができていれば、もともと彼に慈愛の必要はない。
彼に与えられる慈愛は、彼が助けを必要としていることの確認と、彼はそれを受け入れるだろうという認識の両方である。
(奇跡講座テキスト第2章5-10)

この文章を読んだとき、わたしは障害者の就労支援員をしていたときの、わたしの人に対する「対峙の仕方」が根本的に間違っていた事を改めて理解できたような気がしました。

奇跡講座で言う慈愛は、他者の中にある聖性への「信頼」に基づきます。

他者を「足りない者」として見ることは、同じものさしで自分を比較することです。
そこには同じ概念があります。

そして、
これまでに私が赦してきた他者について、
私が彼らを(そして私自身を)裁く概念を手放すことが出来たのは、
彼らの中にある聖なる存在を見ようと決めて、とにかくそこに焦点を当て続けたからだった、
ということにも気付きました。

この視覚は、私が聖霊にそう願ったから与えられていることに気付くことが出来た視覚です。

あなたの内の聖なる光を、私は見ることが出来ます。

私は、というか
「そうしたいなら」、すべての人は
そのように見ることが出来ます。
なぜならそれは、もともと持っているのに、忘れているだけの知覚だからです。
だいじなことは、「そうしたいかどうか」です。

知覚の仕方は、感情や概念によって影響されます。
つまり、愛に基づいた概念を抱いているか、恐れに基づいた概念を抱いているかによって、
同じ出来事をどのように知覚するかは真逆になるということです。

例えば
あなたがAさんからハグされたとして、
あなたにとってAさんがどのような人なのかという概念により、その出来事が攻撃にもなり得るし、最高のやすらぎにもなり得る、
ということ。

つまり、
すべての人の中に聖なる霊としての光を知覚する、ということは、攻撃されることはあり得ない、ということになります。

もっと正確に言うなら
「攻撃されると感じることはあり得ない」
です。

おお、むてきー!
この境地を目指しているのよ。

ほんとは、いつでもこの視覚から他者を見ることが出来るのに、日常生活においてその視覚を発動しないようにしていた。

たいまんだわー!

人を罪に定めるとは
私自身を罪に定めるのと同じことです。

投げた石は、私に当たるのよ。

もっと私にやさしくするのよ。

もう投げない、石。