【日常】ひとつの「イラッ」に含まれる膨大な概念

ACIM

ここ数日で、これまでもっていた固定観念や概念がバリバリ音を立てて崩れていってるのが加速しています。

ももこは自分で言うのもアレですが、超素直なので展開が早いんだなーと思います。
(というか、散々痛い目見たのでさすがに懲りた。もうやだ 笑)

今朝は旦那さんに私の考えてることを少し話すと「わかってるって。結局○○やろ」と一括にされてカチンと来る、という出来事がありました。

ちなみにこれは、私が旦那さんに対して自分自身を投影しているだけなので、旦那さんの○○が悪い、というところで話は終わりません。
そこで相手に罪をなすりつけておけば、ずっと分離していられるので、エゴの思う壺です。

旦那さんは○○で腹が立つ、というときは
=ももこさんはももこさん自身の○○に腹が立つ
という概念が投影されています。

というのを踏まえて、何にカチンと来たのか、つまりももこさんの中にどんな概念がそんざいするのか、分析レッツゴー!

・彼は私のことをわかってくれない
・彼は私の本質的な話をわかろうとしない
・彼は表面的なことしか知らないのに、全部をわかった振りをする
→「彼」は全て「私」である。
つまり、
A「私は本当はわかっていないのにわかったふりをして、本質的なことをわかろうとしない」
という概念があります。

・彼より私の方が詳しいのに
・彼より私の方がスゴイのに
・彼はたいした奴じゃないのに
→「『他者』を引き下ろすことで『自分』のプライドを保とうとする」
つまり
B「『他者』と『自分』は分離した別の存在である」という概念があります。

・知ったかぶりをする
→なぜ?
・知らない/わからないと言いたくない
→なぜ?
・わからないことは怖い
→なぜ?
・不明=暗闇=闇=死
つまり
C「理解できないことは死と連結しているから怖い」という概念があります。

ところで、「死」とは肉体の生命活動の停止を意味するだけで、それ自体に恐怖の属性はありません。

死を恐怖と結びつけるということは、
D「私とは肉体である」という概念があります。

(しかし、私の本質は肉体ではなく霊なので、この概念も間違っています。)

さて、これらの概念ABCDを手放す、と決めて、後は聖霊に「愛へと入れ替えてください」と頼むだけ!
これで「赦し」は完了です。

しばらくして、別の概念があることに気付きました。

「理解は言葉によってなされる」という概念です。
これも手放します。

さらに、その根底に
「言葉(ロゴス)は神である」という概念があることに気付きました。
これも手放し、聖霊によって愛に入れ替えてもらいます。

この概念の背景にあるのは、私の場合、旧約聖書の創世記第一章の第一節です。

「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」

これや!!!

これは、よく見ると、この世界を創ったのがエゴであるという証明と言える文章であることがわかります。

分析レッツゴー!

・はじめに言葉があった。
「はじめ」も「終わり」も存在しない。
何故なら実相(神なる愛の状態)においては時間と空間がないから。

「言葉」とは「認識する主体」と「認識される客体」がいないと存在し得ない。
つまり「認識」が生じた時点で、それは「完全なる愛」ではなく「分離した比較の意識がある」状態である。

→上記2点を踏まえると、ここで言う創造は「意識の分離(二極化)」からはじまり「時間と空間(分離)」を生じさせるもの。
つまり、この世界は分離の意識(エゴ)によって創造(誤創造)されたことになる。

・言葉は神とともにあった。
→「言葉」はシンボル(象徴)であり、それそのものではない。
(例えば「犬」という音は「犬そのもの」ではない。)
言葉とはそれそのものではなく、二次的な概念である。
つまり「言葉(概念)は神とともにあった」というときの「神」はエゴを意味する。

「一なる愛である状態の神」は、概念(上下左右などの比較の意識)を持たないからである。

・言葉は神であった。
→「概念=比較の意識(エゴ)=神」という図式が表すところの「神」とは、「二元性の神」つまり偶像である。

ここまで来たらもう、
創世記の神は「エゴ」じゃん!!!
ということの証明みたいな気がしてきた。

言葉は私の神ではなくなった。

というとこに到達した。

「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」
→ここで言う神はエゴである。
エゴは、わたしの神ではない。

そんな感じで、
一つの「イラッ」から、めっちゃたくさん気付きがあって、爆速で世界が面白くなるのが「赦し」の世界です。

たのしい!