慈愛ってなんぞ
慈愛とは他者を見るときの一つの見方であり、その人が時間の中で実際に達成しているレベルよりもはるかに進んだところに居るかのように、その人を見る。
慈愛とは他者を見るときの一つの見方であり、その人が時間の中で実際に達成しているレベルよりもはるかに進んだところに居るかのように、その人を見る。
今日は、普段聞かないクラシックの交響曲を聞いていたら、自分の中から「うるせー!」という男の人の声が出てきて驚いた。そして下腹部が急激に熱くなり、ぶわーと走馬灯のようなビジョンが走った。
過去生らしきビジョンの話。
人は、
不幸だから文句を言うのではなく、
文句をつけるために「文句を言える状況」を創り出している。
ACIMでやっている「赦し」はエゴの解体をプロセスに含みますが、
観普賢菩薩行法経でも同じこと言ってる。
「一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す」
一つの「イラッ」から、めっちゃたくさん気付きがあって、爆速で世界が面白くなるのが「赦し」の世界です。
すべての人間関係はわたしのエゴによる投影ですが、愛から見て赦すことを選択すると、投影ではなく内側の愛を延長することになります。
本日も聖霊の愛をたくさん感じる出来事があり、涙がたくさん出ました。
今日は引越し先の内見をしてきたのだけど、「ここは」と思った家が実家の間取りとそっくりで、「似てるな」と思ったのです。
人のネガティブな感情に対する感受性の高さは、ときにわたしたちを苦しめることがあります。例えば小さな子供が両親のケンカに対して身をすくませ、自分を道化にしてでも空気を和ませようとするように
人に仕える人はその人への愛を通して、
仕事に仕える人はその仕事への愛を通して、 教えに仕える人はその教えへの愛を通して、 その人の魂の愛へと仕えています。
最近、ACIM(奇跡講座)をやり込むにつれ(やり込むってゲームみたいな表現ね!赦しまくりゲーム)、
わたくしのエゴが筆舌に尽くしがたいほど、めためたに抵抗しておりまして、湧き上がってくるルサンチマン(うらみつらみ)の分量に、ぎょえええとなってました! 笑
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