名前のある人格的なスピリットは、比較可能という時点で「一なる状態」ではない。
一なる状態が二つに分かれないかぎり、そこに知覚できるものは何もない。つまり一方が顕在化し、もう一方にその写し鏡である顕在化されない相補的な半分があるゆえに、その比較によって認識が可能になる。
神を何かと対比することはけっしてできず、ゆえに神を認識することもできない。できるのは、神になることだけだ。
神になるとは「ひとつであること」を体感し続けることなのだろう。
命ある存在は、体験によってのみ神を知る。それは知識ではなく、「在る」ということ。
外から円を見ているのでは知覚はすべて「逆さま」にしかならず、円の中心に立って見ることでようやくそれを理解する。
時間も空間もなくすべての区別もない状態であること。
「初めに言葉ありき」はファンタジーである。
なぜなら言葉とは比較によってしか生じないから。
まず比較の概念があって、それを象徴する音節があるという、二重の象徴が「言葉」になる。
一なる状態においては、「概念」はない。
ふたごころなくして分離は存在せず、分離なくして言葉はない。
つまり言葉から始まる世界は二元性のものとなる。
ここは、つまりファンタジーだ。
わたしの奥へ。神である実相へ。
ただそこへゆきたい。
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