【読書】イニシエートとしての学び

日常

Amazonにおすすめされた「イニシエーション」(エリザベス・ハイチ, 紫上はとる 著)を読んで、わたしが単なるスピリチュアル&恋愛好きだったのではなく、イニシエートとしての生き方を求めていた探求者であることが改めて自覚されました。

この本の中で、古代エジプトのイニシエートの修行方法が出てくるのですが、わたしがこれまでの実生活で文字通り死にそうになりながらやってきたことがほとんど全部、霊性探求の行程と被っている。

えらい大変な人生選んだわと思ったら、古代エジプトみたく修行する神殿がないから、こういう方法やったんかもしれません。

昔から恋愛とセックス、そして暴力と癒やしについて関わりながら、同時に神聖を求めてきました。なぜかずっと「恋愛は修行だ」と思ってた理由もこれでわかりました。わたしにとっては、本当に修行としての意味合いが一番大きかったらしい。

それは陰陽を体感として学ぶことをやりきって、「一なる状態」を心の底からわかりたかったからなのだろう。

あと、わたしの転生(何十万回もやってる)における性別の印象は男性だったときの感覚が比較的強くて、女性のことをもっとわかりたかったみたい。

だから今生では小さくて可愛らしい容姿の女の子になって、女性としての学びを全部やろうとしたようです。なんて無茶するんだ。しかも途中から性別どうでも良くなってるし。

(わたしのセクシャリティは、あえて分類するとパンセクシュアルです。肉体の性別より知性に惹かれます。)

長いけど以下に読んでいて心に響いた文章を引用します。
たぶん、このサイトを楽しんで読んでくれる人たちの中には、同じくそれを求める人たちがあるはずなので。

参考にされたし。

イニシエーション

発言をぬきに沈黙が存在し得ないように、色も互いに補色がなければ存在できない。
この物質の世界では何を顕在化させたとしても、その裏側には顕在化されない相補的なもう半面がひそんでいるのだ。
話すときは、その裏側に陰の面である沈黙が顕在化されないで隠れており、沈黙しているときは、その裏側に陽の面である発言が顕在化されないで隠れている。
山ができるとき、それと補完しあう谷もできる。谷がなくては山は存在し得ず、山がなくては谷も存在し得ない。
何かが顕在化して認識されるとき、それと同時にその反対である相補的なもう半分が顕在化されずに存在している。
陽が顕在化するときにはその裏側に陰が潜在し、逆に陰が顕在化するときには陽が潜在している。
このように、何かが現れるときには、かならずそれと補完しあう半分が顕在化されない状態で存在しているのだ。
その二つは永遠に分かちがたく結ばれている。  
したがって、個別の状態というのはじつは見せかけにすぎないことがわかるだろう。二つの補完しあう半分は、一なる状態から分かれて転落しても、けっして離ればなれになることはないからだ。分かつことのできない神の一なる状態はつねに現れ、あらゆるところに偏在している。
一見ばらばらに存在しているようでも、陰と陽を引き合う力はいたるところでたえず作用している。
陰も陽も、もともとの神の一なる状態に戻ろうとするのだ。
何かが目に見える世界に現れても、それは神の一なる状態から永遠に切り離されてしまったわけではない。いずれは相補的なもう半分と融合して、神の一なる状態に戻っていく。存在するすべてに宿る潜在的な力、あらゆる創造物を原初の一なる状態へと引き戻す力こそ、われわれの言う神なのだ。

あらゆる創造、つまり目に見える世界は、樹木のようなものだ。その右の枝に陽として良い実を、左の枝に陰として悪い実をつける。だがどちらの枝も同じ一つの木に属し、同じ根から生じている。
善と悪は、一なる状態から分かれて生じた。一なる状態は善でも悪でもなく神聖だ。だが、両面に分かれることではじめて認識し知覚することが可能になる。
ゆえに、目に見える世界は善と悪で構成されることになる。
そうでなければそれは認識されることもなく、そもそも存在することさえできないだろう。

この創造世界は善悪の知識の木だと言える。だが、創造主すなわち神は、一なる状態から分割された半分ではない。
そのため神を認識することはできず、神自身が一なる状態なのだ。
神は、一なる状態から分かれた形あるものの上に存在しており、神の内に完璧な一なる状態がある。
神はすべてが生じ顕現するところの無であり、神の一なる状態においては、無とすべては分割されていない。
目に見えるものはつねに全体の半分だ。それは一なる状態から分かれ、対比によって認識できるようになった半分であり、つねにその背後には顕在化されない相補的なもう半分がひそんでいる。
この創造世界のなかで創造主である神を認識することができないのは、対比できるような補完しあう半分が存在しないからだ。
神を何かと対比することはけっしてできず、ゆえに神を認識することもできない。できるのは、神になることだけだ。

聞きなさい、わが子よ。ただ一つの永遠なる存在、ただ一つの神だけが存在する。そして生きとし生けるものの内に、この一なる存在、唯一の神が宿っている。
神は分かつことのできない一なる状態であり、どこにでも遍在し、宇宙全体にゆきわたっている。この宇宙が生きているのは神がその永遠の存在でそれを生かしているからだ。いわば神は生命の木のようにみずからの存在を与え、もう半分と分かれた状態にある創造世界を認識できるようにしている。つまり、善悪の知識の木に命を与えているのだ。

物質世界は善悪の知識の木、すなわち死の木に喩えることができる。
だがその中にも、創造世界のすべてに息づく生命の木である神は宿っている。
神は唯一無二の存在であり、このただ一つの神が、あらゆるもののもっとも深いところに存在する〈自己〉なのだ。

神はあまねく存在する。
宇宙のどこであろうと、神に取って代わることはできない。
一つの同じ神だけが、宇宙のどんな場所からでも、そしてどこへでも、あらゆる生命体に〈自己〉として現れることができるのだ。
神は、形のない一なる状態である。
植物も、動物も、人間も、生きとし生けるものはすべて善悪の知識の木に生る果実であり、それらが生きているのはみな、生命の木の力がその血に流れているからだ。

体は一なる状態から分かれた結果であり、それは真の〈自己〉の、目に見える半分でしかない。もう半分は顕在化されず、いまだに自分の無意識の中に潜在している。
これら二つの補完しあう半分が一つに合わさると、ふたたび神の一なる状態に戻ることができるのだ。

ただしこの一なる状態は、物理的に体験することはできない。
つまり、目に見えない無意識を物理的に見えるような形にして、二つを一つに結合することは不可能なのだ。
一つの意識が二つの体を動かすことはできない。そのように無理やり結合させようとすれば死を招くだろう。そもそも体が目に見える形で現れているという事実は、それが補完しあう半分と切り離されている結果なのだから、こうした方法でふたたび一つに戻そうとすれば体は死を免れない。

けれども体をもったままで、補完しあう半分と神聖な再結合を果たすことはできる。それを可能にするのが意識の状態だ。  
自分の無意識のすみずみまであまさず意識化できるほど意識を大きく広げ、顕在化されていない、目に見えない自分のもう半分を意識的に体験できるようになれば、意識で神の一なる状態に達することになる。
体は目に見える創造世界にあっても、意識をかつて後に残してきた真の〈自己〉と結びつけて融合させることで、完璧な一なる状態へと戻るだろう。
そのようにして、この地上にありながら神の至福を体験することができる。すなわち、みずからが神になるのだ。  
創造されたものはみな、この再融合を希求している。ありとあらゆる生きものが相補的なもう半分とふたたび一つになろうとして、それをさがし求めるのだ。
陽のオスは陰のメスをさがし、逆もまたしかりだ。陽と陰の力のこうした性質は、物質の基本構造をも作り上げている。
実のところ、どんな物質もこの性質がなければ存在できない。
というのも、この一なる状態、すなわち神の状態に戻ろうとする希求が陽と陰のあいだに引きあう力を生みだし、それが世界の基盤を形成しているからだ。
つまり神なる根源的状態に到達しようとする希求によって全世界が成り立っているということだ。
この希求そのものが、顕在化された世界のすべての力の源になっている。  

自然界の性のエネルギーも、それが体に反映されたものだ。しかしながら、人はこの補完しあう半分をいくら自分の外側の認識できる創造世界にさがし求めても、けっして一なる状態に達することはできない。
なぜなら補完しあう自分のもう半分とは、外側に目に見える形では存在してはいないからだ。
それは外側にでなく、自身の無意識という顕在化されていない領域に存在している。
生きものはみな、顕在化されていないところでもう半分をもたずに生きることはできない。
 
愛しい娘よ、おまえにしてもそうだ。
おまえの無意識の中に、自分の対比であるもう半分が、そして意識的に顕在化させたあらゆるものの半分が含まれている。
無意識も自分の一部であり、それも意識的に顕在化されている自分と同様にやはり自分自身なのだ。

ゆえにおまえの補完しあう半分は、自分の外側に存在する男にではなく、真の〈自己〉につながる無意識のなかに見いだすことができる。
意識のもとで二つの半分がふたたび一つになったとき、おまえはすべてであり無である神のもとに帰る道を見いだし、神との合一をはたすことになるだろう。

この融合が意識のなかで起こるとき、顕在化された自分のはてしない探求の旅は終わりを告げる。
ついに補完しあう半分と出会い、一なる状態に融合したからだ。

(『イニシエーション』(エリザベス・ハイチ, 紫上はとる 著)より)