【日常】満ち足りるとは、比較のものさしを手放すこと

ACIM

ACIMを学んでいて、「肉体は夢に過ぎないから、そこへ信を置くな」という教えに、違和感を感じてモヤモヤしていました。

「そんなこと言ってもわたしは三次元(肉体的レベル)をリアリティとして強くフォーカスしているし、健康でうつくしくてお金持ちになりたいと願うのは無理のないことではないか。むしろ肉体的次元を無視するのは逃避なのでは?」
という気持ちがわいてきたのです。

しかし、赦しのプロセスを「すべて」に適用する、という気持ちで、その欠乏感(もっとお金がほしい、もっと美しくなりたい等)を見つめてみると、「あれ?」とこれまでと違う見方が見えてきました。

ところで、
赦しのプロセスは人間相手の場合、わたしは以下のように適用しています。

1「わたしは〇〇さん(赦せない相手)に、投影されたわたし自身を見ている」

2「実相世界(ワンネス)において、わたしには罪はない」

3「わたしにはなんの罪もないので、わたしのネガティブな概念を投影している〇〇さんにも、本当はなんの罪もない」
……

これを、今回は欠乏感に適用してみました。

すなわち、

1 「わたしは、〇〇が欲しい、という気持ちに、投影されたわたし自身を見ている」

〇〇がもっと欲しい、は、言い換えると
〇〇が足りない、ということ。

わたしは自分自身について「わたしは何かが欠けている、わたしは足りない、完璧な存在ではない」と見ている。

……

“わたしは現状でも充分に感謝しうる環境にいるのだが…‘’

ここまで気付いたところで、書いていたノートに自動書記のように手が動き、メッセージが降ってきました。

それは、以下のようなことばでした。

「では、なぜそれを喜ばないのか?
周囲との比較によってみじめさを感じるのは、まさしく二元性の「比較」というものさしによるものであり、そのものさしこそが自分を苦しめる原因だと気付いたなら、それを手放すことができる。

もっとお金がほしい、もっと美しくなりたい、もっと満足したい…

その『もっと』はいつ終わるのか?

比較のものさしを内側に維持し続ける限り、あなたは『もっと』と感じ続け、『まだ足りない』と思うだろう。
それを手放すという選択を、いまあなたに提示する。
さあ、どうする?」

……

こういった「メッセージが降ってくる」ということは、これまでにもよくあることだったのですが、今回はあまりにナチュラルに感情の切り替えが起きたことに、少し驚きました。
ACIMの訓練の成果かもしれない。

それまでモヤモヤしていたのが、ふっとなくなりました。

「まだ足りない、充分でない」という外側に投影された欲望は、「わたしは完璧ではない」と言っていることと同じであることが、感情的にも知的にもわかりました。

「わたしは完璧ではない」
しかし、それは実相世界においては事実ではない。
 
2 わたしは実相世界(一元性の立ち位置)においては完璧であり、満ち足りています。わたしには充分にエネルギーがあり、わたしは愛を分かち合うことができます。
そして、その完璧性を外側にも投影します。

3 わたしに「足りないもの」はありません。

欠乏感とは、内側にある「わたしは完璧な存在ではない」という想念を投影したものです。

「もっとこれが欲しい」「もっとこうであればいいのに」という欠乏感が、「今ここ」の不幸な気分を生み出しています。

しかし、その「もっと」はおそらく、どこまでいっても埋まりはしない。

古今東西の物語で、栄華を極めた王様は不老不死を求めます。
現状で満足すりゃあいいのに、比較のものさしで世界を測っている限り、「まだ足りない」は永遠に終わらないからです。
手術を繰り返す美容整形マニアとかも、おそらく同じなんだろう。

比較の概念により苦しんでいるのに、その概念に沿ったしあわせを追求しようとすることに、果たして救いはあるのか?
そこに終わりは来るのか?

終わりのない比較による欠乏感、ポジティブな言い方をすればそれは成長欲であり、身もフタもない言い方すれば、それは地獄であるとも言えます。

「どこか」で足るを知る必要がある。
それが「今ここ」であると決めた瞬間から、世界の見え方は変わるのだろう。

そして、一元性のしあわせを選択するならば、
もっと健康で、もっと美しく、もっとお金持ちで、もっと有名で、もっと影響力があり、
つまり二元性の世界における価値観において「価値ある存在」として、
「世の中の人から賞賛を得る」ということに価値をおくことはできません。

なぜなら、
「世の人から賞賛を得たい」というモチベーションは、それ自体が欠乏感だからです。
「わたしは完璧ではない」と信じているから、その欠乏感を埋めるために、他者からの賞賛を必要とします。

自身に満足していれば、他者からどのように評価されようと、知ったことではないからです。(と言うより、一元性の見方では、わたしの外側には他者は存在しない。)

ところで、想念の軌道の法則を鑑みると、
「これが欲しい」という欠乏感は
「欠乏感を想起するもの」を引き連れて戻ってくるのです。

二元性においての欲望の充足
(これが手に入った〜わ〜い!)
を手に入れるためには、
先んじて満ち足りた感情を選択する必要があります。

この法則は想念の層におけるルールですが、霊的次元というよりは物理次元のルールに近いと感じています。
感情とは、現実化の設計図みたいなものだからです。

つまり、どちらにせよ「足りない」「欲しい」という欠乏感がある限り、満足することはできないということになります。

欠乏感が物理的に満たされたから満足するわけではなく、満ち足りたと決めることで、満ち足りる現実が創り出されます。

それならば、「今ここで私は満足である」と決めてしまったほうがよい。
だって、そうしないと、私が本当に欲しい「満足」はどちらにせよ手に入らないのだから。

とはいえ貧困や飢餓や病気の中で「わたしは満足している」と思うことは困難なことですし、困っている人に対して「あなたの苦痛は幻想である」なんてことを言うのは、冷淡以外のなにものでもありません。

人が、その苦痛が本当に起こったと信じている間は、助けはその人自身が必要としている形に反映されなくてはなりません。

自分が一個の肉体であり人間であると信じているにも関わらず、問題を単なる幻想として否認することは、誰の役にも立たないことです。

ACIMは問題を否認するコースではなく、その取り消しについてのコースです。

比較のものさしを手放し、

今この瞬間において、
「ここは天国である」と知覚すること。

毎日毎秒、この知覚があればいいよね。

少しずつ、いつでもどこでもその知覚を携えていられるようになりたいものです。