「心理」は真理を見つめる扉

ACIM

前提記事:母の日つれづれ 赦すということ

イライラやモヤモヤというネガティブな反応の底には、かならず「傷」がセットになっているのです。
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ネガティブな反応を引き起こすシチュエーションはほんとはダミーで、「今この瞬間のあの人(出来事)」に腹を立てているのではなく、内側にある「傷」を見ないようにするための、エゴによる防衛本能になります。

つまり、ネガティブな気持ちの影に「痛い!」という神経に触れる傷(概念)が存在しているにも関わらず、

その傷を「あの人(この出来事)のせいで自分は苦しんでる」というネガティビティで隠して、「自分はどんな概念をもっているか」という根本的なところから目を逸らし「根っこを癒やさないようにする」のが、エゴの策略です。

エゴは分離することで存在できる(アイデンティティを保っていられる)ので、赦しによって傷を癒やす、ワンネス(一なる愛)へ向かおうとする動きを妨害します。

なので、全力で「あいつが悪い」と他者に罪を投影しようとします。

家族へのネガティブなきもちというのは、リアルに感じられるので、とりわけ感情的になりやすいです。

で、「あいつが悪い」の罠を超えたら、次は「わたしが悪い」と罪悪感を煽ってきます。

これは両方とも間違いなのですが、二元性のフィールドで考えている限り、どちらかの無罪性を担保するために、どちらかに罪を着せる必要があります。

なので、ここから先の究極的な癒やしへ進もうとすると、二元性のルールを用いている心理学的フィールドから、一元性のスピリチュアルな領域へ進む必要があります。

実はわたしたちが持つ「傷」というのは、ずーっとずーっと突き詰めると、親から受けた痛みによるものが最初、ではありません。

何十万回も輪廻転生している前提で考えると、「現世の親」が一番の原因なわけないのです。

親という存在すら、霊的なレベルにおいては「わたしの内側のバイブレーションに呼応して引き寄せられた、わたしの象徴」なのです。

そこをさらに見つめて、 
つまり「イライラさせられる存在」を「真理を見つめるための扉」として認識し直し、
奥へ奥へとはいっていくと、

生まれる前からある心の中の「一なる愛からの分離」による罪悪感に辿り着くことになります。

しかし、肉体レベルだけで見ていると、個別に次々わいてくる別の問題に翻弄されることになり、その本質がわからない、ということになります。

たとえば、パートナーシップにおける問題や、職場の人間関係、経済状況など、目に見える形で認識できる問題は、「すべてダミー」です。

その問題の鋳型となっているのは、親との関係性です。

そして、親との関係性はさらに根源的な鋳型となる分離の傷を見つめるのに、かなり「いい線いってる」ため、親を赦すことについてはエゴの防衛本能が他よりキョーレツに働くようです。

なぜなら、親を全肯定すると自分を全肯定することに直結するため、世界のルールが変わってしまうからです。エゴはそれが怖くてたまらないのです。

で、この根っこのバイブレーションは
「一なる愛から分離してもーた」
「だから神様から罰せられるに違いない」
という罪悪感&恐怖になります。

ほんとはそもそも「分離してもーた」というのが勘違いで、
「(心のレベルにおいては)一なる愛からの分離は起きてない」ので「罰せられるはずがない」のですが、

自我は勘違いにより世界を創造しているために、なんとかして自分以外の存在に罪をかぶせて自分を無罪とし、「あいつが悪いからわたしは罪がない」と証明し、その罪(と思ってる)から逃れようとします。

なので、相手の存在というのは、「わたしの変化系」だ、というのを前提とすると、根っこを見つめる役に立つかと思います。

ちなみにここまで突き詰めたがるひとはあんまりいませんが、やってみると人生において敵がいなくなり(だって嫌な奴も全部わたしだから)、

色んなことがドミノ倒しのようにうまくいくようになるので、わたしは超絶おすすめします。