【日常】癒やしは祈り手の祈祷能力ではなく、祈り手自身の「状態」が要となる

ACIM

母と妹と二十年来の親友が、最近になって突然すごいスピードで霊的な癒やしの道を辿っている。

わたしは本当に彼らのことを祈り続けてきたけれど、この祈りが成就しつつあるのは、わたしの超常的な能力のためではなく、ただわたし自身が癒やしの道を真に辿ることに依拠している。

癒やしの効力は、祈り手の祈祷能力ではなく、「祈り手自身がどれだけ癒やされているか」がとても大きいように感じる。

想念の世界はホログラフィックに展開されていくから、
世界の鋳型となる自分の傷が癒やされている必要がある。

そうでなければ「外に罪を見出す」だけで、「あの人のあの問題を癒やしてください」というのは、形を変えた相手への罪の指摘でしかない。

相手への罪の指摘とは、相手には問題があるがわたしには問題はない、
つまり相手には罪があり、よってわたしは清い、
とする自我の隠蔽にあたります。

相手のうちに、
その人の癒やしの泉である愛を見出すには
わたしの中に愛を
わたしのど真ん中には愛しかないことを
体感としてわかっている必要がある。

そうしてはじめて
「わたし」の癒やしが「あなた」の癒やしであり
「あなた」を赦すことは「わたし」を赦すことである

つまり、
わたしとあなたは分離した別の存在ではなく
相互につながったひとつの存在である

ということがわかってくる。

だから、「助けてあげよう」というのは分離を前提とした救済なので、
知覚の仕方がそもそもまちがっていて、
「誰かを助けたい」と願うなら、
まず最初に「わたしを徹底して助ける」ことが祈り手のやるべきことである。

そんなふうに感じるこの頃なのです。