永遠
神秘体験とは、認識の変化である。
あなたは私であり、
私は世界である。
私個人というものは、実相においては存在しない。
神秘体験とは、認識の変化である。
あなたは私であり、
私は世界である。
私個人というものは、実相においては存在しない。
10秒で祈れる。
困ったときのとっさのひと言。
現世は赦しと統合のブートキャンプ気分で過ごしてるけれども、わたしにとっては特に子育てというフィールドにおいて、学びが著しい気がします。
一なる状態が二つに分かれないかぎり、そこに知覚できるものは何もない。つまり一方が顕在化し、もう一方にその写し鏡である顕在化されない相補的な半分があるゆえに、その比較によって認識が可能になる。
Amazonにおすすめされた「イニシエーション」(エリザベス・ハイチ, 紫上はとる 著)を読んで、わたしが単なるスピリチュアル&恋愛好きだったのではなく、イニシエートとしての生き方を求めていた探求者であることが改めて自覚されました。
ACIMを学んでいて、「肉体は夢に過ぎないから、そこへ信を置くな」という教えに、違和感を感じてモヤモヤしていました。「そんなこと言ってもわたしは三次元(肉体的レベル)をリアリティとして強くフォーカスしているし、健康でうつくしくてお金持ちになりたいと願うのは無理のないことではないか。むしろ肉体的次元を無視するのは逃避なのでは?」
という気持ちがわいてきたのです…
家族へのネガティブなきもちというのは、リアルに感じられるので、とりわけ感情的になりやすいんだけど、イライラやモヤモヤというネガティブな反応の底には、かならず「傷」がセットになっているのです。
わたしは自分を苦しめた親を赦せないことに悩んだ時期が長くありましたが、相手を赦せないことにより、自分をさらにひどく苦しめることになりました。
それは、潜在意識において本質的には「相手」というのは存在しておらず、相手という鏡越しに「わたし」を赦さないと呪っていたからです。
相手を赦さない=わたしはわたしを赦さない、 ということになります。
癒やしの効力は、祈り手の祈祷能力ではなく、「祈り手自身がどれだけ癒やされているか」がとても大きいように感じる。
想念の世界はホログラフィックに展開されていくから、
世界の鋳型となる自分の傷が癒やされている必要がある。
赦せない人が、ものごとが、存在が、まだたくさんある。
今朝は瞑想後に、思いつく限りの存在を赦すと宣言した。
今日のACIMワークが「神は愛であり、その愛の中で私は赦す」だからちょうどよかった。
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