変わりたいなら、変わったらいい。
やってみたいなら、やってみていい。
なんでも。
でもそれは、「変わらなければわたしは価値が低い」ということではない。
永遠の視点(魂の視点=愛)からは、時間という概念がある次元(過去と未来が存在すると感じる「感情」の次元)にある「良い、悪い」の概念がありません。
すべては愛だから。
だから、「永遠の視点」にフォーカスをあわせたなら、至福とひとつになります。
つまり、魂レベルでは誰も何も困ってないしパーフェクトです。
完全に安心で平和な家で、うたたねしている夢の中で「比較ゲーム」をしているようなかんじです。そこに本質はない。
「昨日、こんな夢を見てさ…」と話したとき、その夢が自分の人生の真実だ、とは思いません。起きてるほうが現実だとわかっているので、夢に引っ張られるのはばかばかしいから。
なので「ねばならない」という罪悪感(○○でないわたしは完璧ではない)は幻想です。
お金持ちになりたかったらやってみていい。
美しくなりたかったらやってみていい。
学びたかったらやってみていい。
でもそれは単に「たのしむため」であり、
魂の本質とはまったく関係がないことです。
お金持ちでなければダメなのか。否。
美しくなければダメなのか。否。
学歴が高くなければダメなのか。否。
すべての「○○ではないわたしには価値がない」は幻想です。
わたしたちの本質は、愛という「比較対象を知覚できない統合体」と一体だから。
「○○ではないわたしには価値がない」という罪悪感に基づく判断は、愛(本質)との間を分断します。
いるだけでいいんだぴょん。
いるだけでパーフェクトなんだぴょん。
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