「特別な愛」のパワーゲームから抜けること

ACIM

「特別な愛」には「特別な憎悪」がセットになっています。つまり、相手が期待外れだったときに怒りが生じます。

自分の設定した枠の中からはみ出さないで欲しいという気持ち。

「あなたのせいで、わたしは傷ついた」ということを言いたくて、人は怒ります。

でも、実際には、わたしたち自身がそれを許さない限り、誰もわたしたちを傷つけることは出来ません。

わたしが誰かの言動で傷ついたならば、傷つくことをわたしが許しているのです。
相手に「わたしに対して影響力がある」と、わたしが許可しているのです。

例えば、相手がわたしを侮辱する言動をしたからといって、いちいちハートブレイクする必要はありません。
侮辱したいのは相手のissueであり、こちらが傷や苦しみを採用する必要は全くないのです。

通りすがりの3歳児に「ばーか」と言われて、あなたは傷ついてストレスを感じるでしょうか?

たぶん、多くの人はそうでもないと思います。

それは、あなたが通りすがりの3歳児の言葉に、「わたしへのもっともな評価である」とか「重要な言葉だ」とは思わないからです。

つまり、人からの侮辱も、何でもかんでも採用して傷ついたと感じるわけではなく、わたしたちは取捨選択が可能なのです。

でも、多くの場面で、人は「○○により傷つけられた」と感じます。

(○○は人の言動でもいいし、社会通念や宗教や新聞記事や、まあなんでもかまわないけれど「外部」のものです)

そして、傷つけられたことをあらゆる怒りによって表現します。

しかし、傷つけられたということは、
相手に対して、自分の領域を傷つけることができるほど影響力がある、と許可を与えていることになります。

実際には、自分が、それを許可しているのです。
なぜなら、自分自身の許可なしに、自分を本質的に傷つけることは、不可能だからです。

多くの恋愛において、人は「自分にない不足」を憧れとして他者に投影し、不足を補うために付き合おうと試みます。

つまり、相手を自分のことを傷つけることができる、自分に影響力がある重要な人として無意識に想定します。

これは恋愛においてだけではなく、
友人や同僚、家族に対してもそうです。

仲の良いときは「特別な愛」となりますが、「傷つけられた」と感じると、同じだけの憎しみになります。

「聖なる愛」は、自分の不完全性を他人に補完してもらおうとする「特別な愛」とは違います。
だから、尊敬はあっても、優劣はなく、対等です。

「聖なる愛」は、互いに完全な存在であるという前提に基づきます。

そして、わたしたちは誰も、「傷つけられる」ことはありません。